日記的なもの

すすめ!

蛙化現象について

蛙化現象についてネットで調べていたら、
原因は自己評価が低いことみたいなことが書いてあった。

自分には魅力がないから、自分のことを好きになる人は変わっている、気持ち悪いと捉えてしまう、
と書いてあったのだが

これはゲイに対して女々しいというのと同じく差別的なのでは?
(女々しいから女が普通好きになる男のことを好きになる、という論理と同じ)

蛙化現象もセクシュアルマイノリティのひとつだとすると、その人たちに対して、自己評価が低いだなんていうのはアウトになるのでは?
確かにそういう要因がないわけではないかもしれないけど、人の性格を決めつけるのは失礼だと思うな〜

女性性のパッシング

私の中の女性性を彼は探ろうとするのだけど、それが少し不快で

私が美意識が低い、女子力を低いというとそれを否定してくる
そんなことないよ、って

それは私が美意識が低いことを否定しているのではなく、女性は美意識が高くあるべきという価値観を消極的ではあるが肯定しているのである。

はーうぜー

可愛いと思われたい反面こんなことを考えてしまう

自己が一貫したものであるというのは間違いだと思うのだけれど、いまの世界では許されないらしいわ

生きにくい〜


まあ私もそれなりのかっこうしていない人に対してダサいとか思うわけだけど、これは男女関係なくそう思う
どうせ服かうなら可愛い服(おしゃれな服、普通の服)買えばいいのに
と思うわけだ

私はジェンダー美の神話をパッシングしているのだ

それなりのダサくない(実際ダサいかもしれないが)と思う格好をして
その反面可愛さを押し付けられることに反発している

とはいうものの私可愛いもの好きなんだけど、
可愛いものを愛でるのと自分が可愛くなりたい(なるべき)なのは別問題

ジェンダー 美の神話 アイデンティティ カテゴライズ死ね

わたしのことを好きでいてくれるから私も彼のことが好きなのだが、誰でも良いわけではない。誰でもいいのに誰でもよくない。
彼のどこが好きなのかと言われると、ちゃんとこたえることはできない。

私本当は知っているんですよ
本当はもっとあなたはかわいらしくて女の子らしい子が好きなんでしょう?

こんなことを私がいうと彼はなんで答えるのかな

そんなことないよ、十分可愛くて女の子らしいよ

だとか的外れなことを言うのだろう。
違うのに私が意図しているのは、私が求めているのは、もっと違うことなのに

女の子らしいとか可愛いとかいう価値なんて捨て去りたい、むき出しの私を愛して欲しい

ありのままの私を愛して欲しい、
これは誤解されやすいけど、着飾らない私を見て欲しいのではなくて、いかなるカテゴリーを通して自分を見て欲しくないだけなのだ
シスジェンダーヘテロセクシュアルだからといって、おんなとしてみられたいわけではない

カテゴライズしないで人間として見て欲しい
こんなめんどくさい「女」さっさと嫌われてしまうのかな

リスロマンティック

人から好意を向けられることが気持ち悪い
ずっと望んでいたのだけど

自分の価値というのは他人の中にあるのだと心は思っていたけど、そうではない。
これがわかっただけでも進歩で、開放だった。
自信はついたしこの世に存在してもいいという許しもやっぱり自分の中に見出せたと思う。
今だから言えることだけど、誰かから愛されないと存在すること自体無意味で許されることではない、という考えは間違いだった。
うすうすというか頭ではわかっていたことを実現させることで心も納得させることができた。
誰かに愛されないと無価値だというのを否定するには、誰かに愛されないといけないというのは、矛盾をはらんでいて逆説的だなあと思う。
実現させるということ自体否定しようとしている言説に則っている。

難しいですね。

それはさておき、リスロマンティックや俗に言う蛙化現象について。

なんというか、私の場合、一方通行の恋がしたいわけではない。
私が一番好きなのは、相手は私のことを好きかもしれないという可能性がそこそこあることであって、可能性が0や90まで行ってしまったらいけないのである。
可能性が0だったら面白くない。
逆に可能性が確信に変わった瞬間、相手の私を思っての一挙一動を少し気持ち悪くかんじる、
というか一歩距離を置いてみてしまう。そしてサーと何かが冷めて引いてしまう。
この嫌悪はなに?蛙化現象?リスロマンティック?
好きかもしれない、のときはあんなにキャッキャしていたのになあ。

そういえばサークルクラッシャーなるものがこの日本に存在するらしい。サークラはいろんな人に対して思わせぶりをするみたいだが、彼女らと私は同じ状態なのかな
私は理性を持って行動しようと思うから、サークラにはならないと思う。
もし、私の中の承認欲求がもっと大きくて、良心があともう少しかけていたらサークラになっていたかも
サークラはおそらく女性からも疎まれ嫌われ、異性からもやばいやつ認定されて生き辛いのだろうな。
昔は大嫌いな人種だったのだろうけど、今は心から同情するし気持ちは少しはわかる
強く生きましょう

呪い

最近自分は今まで何にとらわれていたのだろう、と思うことが多い。
自分で自分を縛って生き辛くしていた。
私を縛っていたものは望みだったのだが、それは、叶おうとして初めて目に見える存在になった。目に見えたから解くことができたのだ。叶っていないからまだ完全にほどけてはいないのだが。

愛される、と自分を肯定できると思っていた。私を愛してくれている人の中で私は絶対的な存在になると思っていた。なぜそう思っていたかというと、私自身誰かを好きになるとその人を絶対的な存在に祭り上げていたから。その人は私を肯定してくれる。だから私はこの世界に生きていることを許される、そう思っていた。誰にも愛されないと生きていてはいけないような気がした。愛してくれれば誰でもいいと思っていた。

でも、違った。好きではない人が私を好きになってしまった。なんとも居心地が悪い。しかも、少し前までちょっといいな、と思っていただけに居心地が悪い。
自分が好きな人が自分を好きになってくれるなんて、一生来ないんじゃないかな。
これもまた呪い。

そういえば、もう一つ好きになるということについて思ったことがある。好きになるということは好きな人の中に本質的な何かを見つけることだと思っていた。その人唯一の何かを。
しかし、そうではないかもしれない。単に好意の相乗効果なのかもしれない。私たちは人を好きになるのではなく、関係性を好きになるのかもしれない。だとしたら、人の中に本質的な何かなど存在せず、人なんてただのブラックボックスなのかもしれない。つまり、誰かに好きになられても、それは全く存在の肯定にはならない。これも呪いを解くような発見だったが、新たに呪いをかけてしまったような気もする。

それでもこの人を恋人にするのを無理ってなることもあるからなあ。一定のラインが存在するのは確かだ。
大森靖子の歌詞を思い出した。

オリジナルなんてどこにもないでしょう
それでも君がたまんない

まさにそうなのかもしれない。本質的な何か(オリジナル)などはどこにもない。単に関係性を愛していて、あなたはブラックボックスなのかもしれない。それでもやっぱりあなたがいい。
矛盾かもしれないけど。いや、矛盾にこそ本質かもしれないと最近様々な場面で思う。一貫性など作為的なものではないか?

コードギアス

コードギアス

ギアスは卑怯だというのをスザクがナナリーが入っていたと思う。人の意思を捻じ曲げるから。

最近、自由意志というものを意識するようになった。

ギアスは自由意志を曲げさせる。なかったことにしてしまう。

なかったことにされてしまうときの屈辱。

少し前の話になる。ダウンタウンの浜田が黒人のマネをする際に、黒塗りメイクをしたことが批判された。これは黒塗りメイクが、差別的行為として白人(実はいうと日本人もしていたかもしれないが)がしていたということを我々日本人は認識していなかったことが問題であったのである。差別する気がなかったにせよ、その文脈を無視され、浜田の中では黒人たちが受けていた差別は存在していない、ということが問題である。
黒人差別はなかったことにされてしまっていたのだ。
三者である、と信じている、日本人の中には。
それが悪いことなのかどうかはわからないけど、悲しいことなのだろう。

なかったことにされてしまう。

例えば、人の生い立ちや背景とその人の言動や性格と結びつけてしまうことも「なかったことにしてしまう」暴力なのかもしれない。

その人の意志を無視しているから。

その人そのものを見ていないということになるから。

支援者は一度真っ白にする(予備知識や、その他の支援される側の情報を意識的に頭の隅に追いやる)というのはそういうことなのかもしれない。

青い

昨日自分の中の何かが剥がれて弾けてとめどなく何か奥の方にあった青いものが流れ出てきてしまった。

自分の中で自分を取り繕って、生きやすく、深く考えないようにしていた膜がなくなってしまった。

うすうす自覚していたんだけど、考えてもしょうがないから考えないようにしていた自分のコンプレックスや、その根底にある無価値であることを言語化してしまってもう無理だ、


最近はそうではなく乗り越えたと思っていたけどどうも違うらしい。

これは思春期なのだろうか。

ああ私拒絶されたんだ、
それが悲しかった。どうしていいかわからなかった。そのどうしていいかわからない自分が憎かった。自分はどこまでいっても上手くいかない、かっこよくない、ダサい人間だ。



他人を自分をそうだと信じ込ませてきた仮面が落ちて音を立てて割れた。
エヴァの加地さんについて、ただ大人の仮面が破られなかっただけなのかもしれない、というネットでのコメントを思い出した。みんなそうなのかな。
みんな、そうなの?そうだったら安心するのだけれど。あのくらい感情に蓋をして、日常を送り、たまに蓋が外れる瞬間が他の人にもあるの?ほんとうに?

自己肯定感が低いとか、逆に高い人がいることが信じられない。生きやすいからそちらを選択してそう思い込んでるだけではないの?
ほんとうに?ちゃんと持っているの?